マリナが「声が聞こえる」と最初に言ったのは、十一月の終わりだった。
石神は大学の研究室から帰宅すると、彼女がリビングの窓際に立ったまま、向かいのマンションを見つめていることに気づいた。夕食の匂いがしなかった。珍しいことだった。
「どうした?」
「聞こえないの?」マリナは振り返らずに言った。「あそこの部屋から、何か送ってくる。周波数みたいなもの」
石神は窓の外を見た。六階建てのマンション。灯りのついた部屋がいくつか。それだけだった。
「電磁波の話?」彼はほぼ反射的に言った。物理学者の癖で、まず測定可能な現象に変換しようとする。「住宅地ではWi-Fiや携帯基地局が——」
「そうじゃない」
マリナは静かに、しかしはっきりそう言って、テーブルに座った。何も食べなかった。
石神は翌日、認知神経科学のデータベースで「聴覚的幻覚の初発」に関する論文を二十三本読んだ。仕事として読んだ。自分の妻についてではなく、一般的な症例として読もうとした。
ドーパミンD2受容体の過剰活性化。側頭葉の言語処理領域における異常なボトムアップ信号。ノイズが過大評価され、存在しないパターンが生成される。
彼は論文を閉じた。
存在しないパターン。
十三年間隣にいた人間の知覚が、自分とはもう一致しない。それをどう処理すればいいか、神経科学のデータベースには一行も書かれていなかった。
三ヶ月後、マリナは入院した。
石神は病棟の廊下の椅子に座って、白い天井を見ていた。主治医から「抗精神病薬で症状は管理できます」と説明を受けた直後だった。「管理」。その言葉が頭の中で回っていた。
管理と根治は違う。
量子情報理論の研究者として、石神は「デコヒーレンス」という概念を理解している。量子系が外部環境とエンタングルすることで、重ね合わせ状態が崩壊し古典的な一つの状態に収束していく現象。観測によって現実が確定する。
マリナが「聴いている声」は、彼女の脳がデコヒーレンスを起こした結果生じたノイズなのか。それとも——石神はここで自分の思考を一度止め、科学者としての訓練を総動員してその問いを完全に平坦に言語化した——人類の測定装置がまだキャッチできない何らかの信号が、彼女の受信感度の高い脳に干渉している可能性はゼロか?
ゼロとは言えなかった。
証明もできなかった。
どちらとも断言できない状態で、廊下の椅子に座り続けた。白い天井。消毒液の匂い。面会時間まであと四十分。
病院から帰宅して、石神はノートパソコンを開いた。
新しいフォルダを作った。名前をつけた。
mind-breaker // 認知システムの脆弱性と修復——個人研究ログ
最初のエントリに、彼はこう書いた。
人間の認知システムには、既知のバグと未知の可能性が混在している。既知のバグ(認知バイアス、精神病理、社会的操作への脆弱性)を悪用して利益を得る者たちは、同時に未知の可能性(意識の未解明な側面)の探求を汚染し、困難にしている。前者を精密に除去することが、後者の探求の前提条件だ。
この二つは切り離せない。
待っていてくれ、マリナ。
私は、あらゆる可能性を否定も肯定もせず、ただ徹底的に調べ尽くす。
送信先のないメッセージを、彼は暗号化してローカルに保存した。
それが、mind-breakerの最初のファイルだった。