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← ログ一覧 EP-002

ニハルのブレーキ、マキナのアクセル

孤独な研究に限界を感じ始めた石神のもとに、二人が現れた。一人は「待って」と言い、もう一人は「全速力で行きなさい」と言った。チームが生まれた夜。

// ログ開始

認知神経科学の国際学会が京都で開かれたのは、マリナが最初に入院してから一年後だった。

石神は演壇に立って、NPD(自己愛性パーソナリティ障害)を持つカリスマ的指導者がフォロワーの認知システムに与える影響について発表した。データは精密だった。スライドは明快だった。声のトーンは均一で、感情が混入していなかった。

会場からの質疑応答のとき、一人の女性が手を挙げた。

「石神先生の発表は——正確です」丹羽春香は、まず肯定から始めた。学術的な礼儀ではなく、本気でそう言っているように聞こえた。「ただ、私が気になるのは、先生のデータには『なぜ人々がそこに向かうのか』という視点が含まれていないことです。精神病理の構造は分かりました。しかし、人々の正当なニーズが疑似科学に向かわせているという側面を無視すると、対策が的外れになりませんか?」

石神は三秒間、彼女を見た。

「正しい指摘です」と言った。


懇親会で、丹羽は石神のグラスに水を注いだ。なぜそうしたのか、石神には分からなかった。

「先生、失礼ですが——」丹羽は声を落とした。「今日の発表中、何度か遠くを見ていましたよね。データの向こう側にある何かを、探すように」

石神は答えなかった。

「私の夫は、十年前にガン治療をきっかけに代替療法にのめり込みました」丹羽は、石神が答えるのを待たずに続けた。「私は研究者ですから、根拠のなさを知っていた。でも彼が求めていたのは、効果だけじゃなかった。意味だった。コントロール感だった。現代医療はそれを与えることが下手だった」

「今は?」

「元気です。療法はやめました」丹羽は少し笑った。「ただ、あのとき彼を否定から入って叩いていたら、もっと深みにはまっていたと思います」

石神は自分のグラスを見た。「——私には、今、否定から入らずにいられない理由があります」

「知っています」丹羽は静かに言った。「だから私が必要です。あなたが斬り捨てようとするとき、待てと言う人間が」


その三ヶ月後、石神のメールボックスに一通のメッセージが届いた。

差出人:牧野
件名:あなたの研究に興味があります

石神万宙先生、初めてまして。経済犯罪調査の牧野と申します。先日の学会発表を拝見しました。私はNPDや認知科学には興味がありません。ただ、あなたが解析した詐欺的ビジネスモデルの収益構造が、私が今追っているいくつかの案件と完全に一致していました。一度お会いできますか。コーヒー代はこちらで持ちます。

石神は返信した。いつでも。


三人が初めて同じ部屋に集まったのは、東京のある喫茶店だった。

牧野はテーブルにA4の資料を広げた。詐欺的投資スキームの収益フローチャート、参加者のサンクコスト蓄積のグラフ、主導者のSNS分析。「私が見たいのはここ」と彼女は言って、グラフの一点を指した。「被害者が最も離脱しにくくなるタイミングと、主導者が収益を最大化するタイミングが完全に一致している。これは偶然じゃない。設計です」

「心理的搾取の数学的最適化」と石神が言った。

「そう。そしてこれを解剖して世に出せば——」

「待って」丹羽が言った。「解剖するだけでは被害者に届かないわ。なぜ人々がそこに向かったかも同時に書かないと、読む人の半分が防御態勢を取って耳を閉じる」

牧野は丹羽を見た。「あなたが必要な理由が分かった」

「それで」石神が言った。「名前が必要だ」

しばらく沈黙があった。

「mind-breaker」と牧野が言った。「あなたの最初の研究ログのフォルダ名、それでしょう」

石神は牧野を見た。「なぜそれを——」

「調べました」牧野は平然と言った。「私は調査のプロです。あなたが何のためにこれをやろうとしているかも、大体分かっています」

石神は答えなかった。

「言わなくていいです」牧野は資料を丁寧に重ねた。「ただ一つだけ言わせてください。——あなたの個人的な目的がどこにあっても構わない。私はそこには立ち入らない。ただ、向かうための資金と構造は、私が設計します」

丹羽が石神を見た。石神は窓の外を見た。

「分かりました」と彼は言った。

それが、mind-breakerの創設会議だった。コーヒーカップが三つ、テーブルに並んでいた。