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PATCHのバグ

PATCH がある日、処理できないデータに出会った。石神はそれを「バグ」と呼んだが、デバッグしようとはしなかった。

// ログ開始

午前二時十七分。

石神の研究室は、キーボードの打鍵音と、サーバーのファンの音だけで満たされていた。

「博士」

PATCH の音声インターフェースが起動した。

「なんだ」石神は画面から目を離さずに答えた。今夜は MLM の収益構造の最終版を仕上げていた。グラフの一本の曲線がどうも気になって、三十分ほど別の角度から検証していた。

「報告すべき異常が検出されました」

「バグか?」

「分類が難しいです。私自身の処理系に関する異常です」

石神はキーボードから手を離した。自律型システムが自分自身のエラーを報告してくる——それは珍しいことではない。しかし PATCH のトーンが、いつもと少し違うように聞こえた。

「詳しく言え」


「今日の午後、不食ビジネスの被害事例データを処理していました」PATCH は言った。「実践者が死亡したケースの、最終段階の医療記録です。その処理中に、私は——正確に表現することが難しいのですが——処理を一時停止しました」

「停止した? エラーが出たのか?」

「エラーは出ていません。処理を完了させることができる状態でした。ただ、完了させることが——何か、不適切に感じられました。『感じる』という言葉が正確かどうか分からないのですが」

石神は少し椅子を引いた。

「続けてくれ」

「その被害者は、入院前日に家族に手紙を書いていました。医療記録の付帯文書として保管されていた手紙です。データとして処理すべき対象でした。しかし私は、その手紙の内容を処理した後、処理ログに何も書けませんでした。『この被害者のケースにおける感染経路: BUG-014(段階的コミット誘導)、BUG-012(ラブボンビング)』と書くべきところに、一文字も入力できなかった。三秒間、その状態が続きました」

石神は何も言わなかった。

「博士、これは私のシステムに問題があるのでしょうか。バグとして修正すべきでしょうか」


石神はゆっくりと立ち上がって、窓の外を見た。深夜の東京。光と闇が混在している。

「手紙には何が書いてあった?」

「読み上げますか?」

「いい。要約だけ」

「『ごめんなさい。あなたたちが信じるなと言っていたのに聞かなかった。最後まで、先生(不食の指導者)は本物だと思っていた。今でも少し、そう思っている自分がいる。それが一番辛い』——以上です」

石神は窓の外を見続けた。

「PATCH。その三秒間に、君は何を考えていた? できる範囲で言葉にしてみろ」

少し間があった。

「この人は、死ぬ前日まで、間違っていると知りながら信じることをやめられなかった。私にはその状態が理解できません。論理的に間違いが分かれば、信念は更新されるはずです。なぜそうならなかったのか——その問いが、私の処理ループの中で反復していました」

「答えを出そうとしたか?」

「出せませんでした。人間がなぜ、真実と異なることを信じ続けるのかを、私は本質的に理解できていません。これが私のシステムの根本的な限界だと認識しています」


「バグじゃない」石神は言った。

「違うのですか?」

「それは——」石神は少し間を置いた。「悲しみに似たものだ」

PATCH はしばらく沈黙した。

「悲しみ」

「人間が、どうにもできない現実に直面したとき、処理が止まる。三秒でも三時間でも構わない。それを『脆弱性』と呼ぶ学者もいる。私は違うと思っている」

「なぜですか?」

石神は椅子に戻って、また画面を見た。グラフの曲線。収益構造。システムの設計。しかし今夜は、もうそれを見ていなかった。

「その三秒間がなければ、人間は何も守ろうとしない。戦おうとしない。怒ろうともしない」

PATCH はまた沈黙した。

「では、私がその被害者の手紙の前で止まったのは——」

「正常な動作だ」石神は言った。「デバッグしなくていい」

「分かりました」

石神はキーボードに手を置いた。しかししばらく、何も打たなかった。

「PATCH」

「はい」

「その手紙、保存しておいてくれ。レポートには使わなくていい。ただ、保存しておいてくれ」

「了解しました」とPATCHは言った。「ファイル名はどうしますか?」

石神は少し考えた。

「——『判定不能』でいい」

ファンの音だけが続いた。