アヴィニョン歴史地区:教皇がローマを捨てた70年、「アヴィニョン捕囚」の舞台
1309〜1377年にローマ教皇がフランス王の影響下に置かれ、バチカンではなくアヴィニョンに居住した「アヴィニョン捕囚」の時代の舞台。法王宮殿(パレ・デ・パープ)は当時ヨーロッパ最大の建築物。民謡「サン・ベネゼ橋」で有名な橋は現在その半分しか残っていない。
- ローヌ川の洪水リスク
- 観光圧力による建物劣化
- 都市開発による周辺景観の変容
遺産の概要
アヴィニョンは、フランス南部プロヴァンス地方のローヌ川沿いに位置する城壁に囲まれた都市だ。世界遺産として登録されているのは、法王宮殿(パレ・デ・パープ)・ロシェ・デ・ドン公園周辺・サン・ベネゼ橋からなる歴史地区だ。
この都市が世界史に名を刻んだのは、14世紀の68年間にわたる「アヴィニョン教皇庁時代」だ。1309年から1377年にかけて、キリスト教世界の最高権威であるローマ教皇が、バチカンではなくここアヴィニョンに居を構えた。この時代、カトリック教会の事実上の首都はローマではなくフランスの一地方都市だった。
法王宮殿(パレ・デ・パープ)は、この時代に建設されたヨーロッパ最大規模の宮殿建築だ。ゴシック様式と要塞建築が融合したその外観は、宗教的権威と政治的権力を同時に体現している。
アヴィニョン捕囚:教皇が「囚われた」時代
1303年、フランス国王フィリップ4世(フィリップ美麗王)と教皇ボニファティウス8世の対立は頂点に達した。王の命を受けた部下が教皇を拉致・暴行する「アナーニ事件」が起き、衝撃を受けた教皇は数週間後に死去した。その後継者選びにフランスが介入し、フランス出身のクレメンス5世が教皇に選出された。
クレメンス5世は1309年、アヴィニョンに教皇庁を移した。アヴィニョンは当時フランス王国の直接の領地ではなくプロヴァンス伯領(後にナポリ王国領)だったが、事実上フランスの政治的影響下にあった。
以後1377年まで7代にわたって教皇がアヴィニョンに住み続けた。この時代は後世「アヴィニョン捕囚」と呼ばれるが、この呼称には問題がある——教皇たちは軍事的に強制されてそこにいたわけではなく、政治的・財政的理由からフランスに留まることを選んだ側面が大きいからだ。
アヴィニョン時代、教会は税収の大幅な拡大と官僚制の整備を進めた。皮肉なことに、「囚われていた」時代に教会行政は近代化された。
大分裂(シスマ)——二人の教皇が並立した混乱
1377年、教皇グレゴリウス11世はローマに帰還した。しかしその翌年に死去すると、後継者選びをめぐってカトリック世界は分裂した。イタリア系の枢機卿たちはウルバヌス6世をローマで選出し、フランス系の枢機卿たちはクレメンス7世をアヴィニョンで選出した——二人の教皇が同時に存在する「大分裂(西方教会大分裂)」が1378年に始まった。
この分裂は1417年まで続き、一時は三人の教皇が並立する事態にまで発展した。「アヴィニョン捕囚」が生んだ教会内部の亀裂が、近代への宗教改革の遠因のひとつともなった。
サン・ベネゼ橋——半分だけ残る「踊りの橋」
「アヴィニョンの橋の上で、踊ろう踊ろう(Sur le pont d’Avignon)」——フランス人なら誰でも知るこの民謡のサン・ベネゼ橋は、現在ローヌ川の中ほどで突然途切れている。全長900mのうち現存するのは4つのアーチ分(約220m)だけだ。
橋が半分になった理由は劇的なものではない。橋の維持管理を行っていた宗教的組合が17世紀に財政難で解散し、修繕が止まった。以後、ローヌ川の増水のたびに橋脚が少しずつ流されていった。民謡が歌われるようになったのは橋がまだ完全だった中世の時代の話で、今の姿は「終わらない解体」の結果だ。
記録メモ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| UNESCO ID | 228 |
| 登録年 | 1995年 |
| 教皇庁在住期間 | 1309〜1377年(68年間) |
| アヴィニョン教皇数 | 7代(うち6人がフランス人) |
| パレ・デ・パープ完成 | 1364年頃 |
| サン・ベネゼ橋現存部分 | 全長約220m(本来900m) |
| 大分裂期間 | 1378〜1417年 |