オウロ・プレトゥ:ハンセン病の彫刻家が刻んだ、ゴールドラッシュの首都
1698年に金が発見され、18世紀前半に世界最大の金の産地となったブラジルの山岳都市。急峻な丘陵に密集するポルトガル・バロック建築群の中に、ハンセン病で手指を失いながらノミを手首に縛り付けて彫り続けた彫刻家アレイジャジーニョの作品が点在する。ブラジル最初のユネスコ世界遺産。
- 熱帯性気候(高温多湿)による石材・木材の劣化
- 急峻な地形と豪雨による土砂崩れリスク
- 観光客増加による街路・建築への物理的負荷
- 維持修復費の慢性的な不足
遺産の概要
オウロ・プレトゥ(「黒い金」の意)はブラジル・ミナスジェライス州南部の山間に位置する都市だ。標高約1,100〜1,300メートルの急峻な丘陵地帯に、17世紀末〜18世紀のポルトガル植民地バロック建築群が密集して残る。1980年、ブラジルで最初のユネスコ世界遺産に登録された。
登録の核心的な価値は二つだ。一つは18世紀のゴールドラッシュによって生まれた南米最高の植民地バロック建築群。もう一つは、ハンセン病の進行と戦いながら彫刻を作り続けた建築家・彫刻家アレイジャジーニョの作品群だ。
ゴールドラッシュが生んだ山岳バロック都市
1698年、ミナスジェライス州の河床から砂金が発見された。ニュースはヨーロッパ中に広まり、18世紀初頭には数万人がこの地に流入した。「ゴールドラッシュ」という現象はカリフォルニア(1848年)よりも150年早く、ここで起きていた。
ポルトガル植民地政府は採掘を管理し、金の5分の1(クインタ)を王室税として徴収した。その莫大な収入はリスボンの宮廷とオウロ・プレトゥの教会建設に注ぎ込まれた。18世紀前半のピーク時、オウロ・プレトゥには推定10万〜15万人が居住し、当時の北米最大都市フィラデルフィアを上回る規模だったと推定される。
金は採掘されつくされ、18世紀末には産出が激減した。しかし急峻な山岳地形が「近代的再開発」を実質的に妨げたことで、ゴールドラッシュ期の建築群がほぼそのままの姿で今日に伝わった。
アレイジャジーニョ:ノミを手首に縛った彫刻家
オウロ・プレトゥを世界的な文化都市たらしめた最大の要因は、アントニオ・フランシスコ・リスボア(1738〜1814年)——通称アレイジャジーニョ——の存在だ。
アレイジャジーニョはポルトガル人建築家と黒人奴隷の間に生まれた混血の職人だった。若くして頭角を現したが、40代頃からハンセン病が進行し、指・足先が壊死して失われていった。
しかし彼は制作を止めなかった。助手の黒人奴隷たちがノミとハンマーを彼の手首に革紐で縛り付け、腕全体を使って石を彫る方法を採用した。疾病が進むにつれて作業は困難を極めたが、晩年までオウロ・プレトゥ周辺の教会彫刻を作り続けた。
代表作はコンゴーニャス・ド・カンポ(オウロ・プレトゥから70キロメートル)のボン・ジェズス・デ・マトジーニョス聖堂に立つ預言者像12体と、ゴルゴタの丘を表す礼拝堂群「パッソス」の66体の木彫人形だ。後者には黒人奴隷の表情をモデルにした反乱者・苦悶する人間の顔が刻まれており、植民地支配への批判が彫刻に隠されているとも解釈される。
チラデンテスの反乱と独立の萌芽
18世紀後半、ポルトガル王室による金の収奪が続く中、オウロ・プレトゥでは最初のブラジル独立運動が芽生えた。1789年の「インコンフィデンシア・ミネイラ(ミナスの反乱)」だ。
運動の象徴となったのは歯科医・民兵士官のチコ・シャヴィエル・ダ・シウヴァ、通称「チラデンテス(歯抜き師)」だ。陰謀が密告により発覚し、チラデンテスは処刑・四肢切断・梟首の刑を受けた。その後、彼はブラジル独立の殉教者として国民的英雄に位置付けられ、4月21日は「チラデンテスの日」として現在も祝日になっている。
記録メモ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| UNESCO ID | 124 |
| 登録年 | 1980年(ブラジル最初の世界遺産) |
| 金発見年 | 1698年 |
| ピーク人口 | 10万〜15万人(18世紀前半推定) |
| アレイジャジーニョ | 1738〜1814年(本名アントニオ・フランシスコ・リスボア) |
| 独立運動 | 1789年(インコンフィデンシア・ミネイラ) |
| 登録基準 | (i)(iii) |