クラクフ歴史地区:ワルシャワが燃えた夜、この都市だけが生き残った
ポーランド王国の首都として11〜17世紀に栄えた歴史都市。ヴァヴェル城・マリア大聖堂・中央広場が中世の姿を保つ。第二次世界大戦でワルシャワが徹底的に破壊された一方、クラクフは奇跡的に損傷を免れた——ドイツ総督府が置かれ首都として機能していたためという説がある。
- 観光過密化による歴史的景観の変容
- 大気汚染による石造建造物の劣化
- 不適切な都市開発
遺産の概要
クラクフはポーランド南部、ヴィスワ川沿いに広がる都市で、11世紀から17世紀初頭にかけてポーランド王国の首都として機能した。現在も旧市街には中世の都市構造がほぼ完全な形で残っており、ヴァヴェル丘の王城・大聖堂群、旧市街の中央広場(リネク・グウォヴニ)、マリア聖母教会などが主要な遺産を構成する。
リネク・グウォヴニ(大広場)は面積約4万m²で、中世ヨーロッパ最大の市場広場のひとつ。13世紀に整備されたグリッド状の都市計画がそのまま維持されており、ヨーロッパの中世都市計画の実例として高い学術的価値を持つ。
マリア大聖堂と「世界最大のゴシック木彫」
大広場の北東角に立つマリア聖母教会の内部には、1477〜1489年にニュルンベルクの彫刻家ファイト・シュトスが制作した大祭壇が安置されている。高さ13メートル(翼部を広げると幅11m)、菩提樹材と楓材を使用した世界最大のゴシック木彫祭壇だ。
中央パネルには聖母マリアの眠り(ドルミツィオ)と被昇天の場面が彫られ、200体以上の等身大または等身大以上の人物像が描かれている。制作に12年を費やした傑作だが、第二次世界大戦開戦直後の1939年9月、ナチスの接収を避けるためポーランド当局が解体・箱詰めして疎開させた。しかしドイツ軍に発見され、1939年12月にはニュルンベルクへ搬送された。
祭壇は1946年に返還され、現在は元の位置に再設置されている。
「奇跡の生存」——なぜクラクフは燃えなかったか
1939年9月のドイツ軍侵攻以降、クラクフはドイツ占領下のポーランド総督府(Generalgouvernement)の行政首都とされた。総督ハンス・フランクはヴァヴェル城に居を構え、ここをポーランド支配の拠点とした。
皮肉なことに、この「占領された首都」という立場が都市の物理的な破壊を防ぐことになった。ワルシャワは1944年のワルシャワ蜂起後にナチスによって計画的に廃墟化されたが(旧市街の約85%が破壊)、クラクフは総督府の機能施設として温存された。
1945年1月18日のソ連軍進攻時、ドイツ軍はクラクフの爆破を計画していたとされるが、ソ連軍の電撃的な進軍と、一部のドイツ将校が命令を実行しなかったことで、主要建造物は無傷のまま残った。
ユダヤ人街カジミエシュの記憶
クラクフの旧市街に隣接するカジミエシュ地区は、15世紀に設立されたユダヤ人コミュニティの中心地だった。第二次世界大戦前には6万5千人のユダヤ人がクラクフに住んでいたが、戦後までに大多数がアウシュヴィッツをはじめとする収容所で殺害された。
カジミエシュには現在もシナゴーグ(礼拝堂)7棟が残り、うち6棟が博物館として公開されている。映画「シンドラーのリスト」(1993年)の撮影地でもあり、スティーヴン・スピルバーグのこの作品が、失われた記憶を世界に再発信する契機となった。
記録メモ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| UNESCO ID | 29 |
| 登録年 | 1978年(UNESCO世界遺産制度開始直後) |
| 大広場面積 | 約40,000m² |
| マリア大聖堂祭壇高さ | 約13〜15m |
| 祭壇制作者 | ファイト・シュトス(1477〜1489年) |
| 戦前ユダヤ人人口 | 約65,000人 |
| ワルシャワ破壊率 | 約85%(クラクフはほぼ無傷) |