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HERITAGE // 世界遺産・人類の記録アーカイブ 文化遺産
HRG-370 2026-06-10

ドゥブロヴニク旧市街:「アドリア海の真珠」が爆撃された日――世界遺産と戦争犯罪の境界線

所在地 クロアチア・ダルマチア海岸
時代 中世〜近世(7世紀〜19世紀)
UNESCO登録年 1979年
UNESCO基準 (i) (iii) (iv)
保全状態 保全状態:要注意
UNESCO ID #95 ↗
SUMMARY

「アドリア海の真珠」と呼ばれたドゥブロヴニク旧市街は、1991〜92年のユーゴスラヴィア内戦でセルビア・モンテネグロ軍の砲撃を受けた。世界遺産登録済みの都市への組織的攻撃は国際人道法上の戦争犯罪を構成するとして旧ユーゴ国際刑事裁判所(ICTY)で裁かれた初の事例となった。現在はゲーム・オブ・スローンズのロケ地として年間400万人超が訪れ、歴史的石畳が磨耗する「観光公害」という新たな脅威に直面している。

⚠ 主な脅威
  • 大量観光(年間400万人超)による石畳・城壁の物理的摩耗
  • クルーズ船による短時間集中型観光と旧市街の生活環境悪化
  • 地震リスク(1667年大地震で旧市街の大半が倒壊した歴史あり)
  • 気候変動による海面上昇とアドリア海沿岸侵食
クロアチアアドリア海中世都市国家戦争と世界遺産オーバーツーリズムゲーム・オブ・スローンズ
セキュア通信ログ // HRG-370 AES-256
Dr.石神
1991年10月から1992年5月にかけての砲撃で、旧市街の建造物の約68%が被弾し、9棟が全壊した。ICTYはこれを「正当な軍事目標なき文化財への故意の攻撃」と認定し、パヴレ・ストルガル将軍に禁固8年を言い渡した。世界遺産の意図的破壊を戦争犯罪として初めて国際司法が裁いた事例として、ハーグ条約の実効性を問う先例となっている。
亜美
ドゥブロヴニクは市域の居住人口が約4万人なのに対して年間来訪者数が400万人を超え、ピーク時には旧市街内に8,000人が同時滞在するという試算がある。クロアチア政府は2019年にクルーズ船の一日寄港を4隻・乗客4,000人に制限するレギュレーションを導入したが、コロナ禍後の観光需要急回復でその実効性は低下している。ICTの観点では、デジタル整理券システムの実証実験も進む。
Dr.丹羽
ドゥブロヴニクの都市構造は、1272年制定のStatuta Ragusinaという条例集に基づいた計画都市として発展した。幅約30メートルのプラツァ通りを中軸に、格子状街路と共和国広場が配置され、修道院・教会・噴水・市場が厳密な空間序列で並ぶ。この都市計画の合理性は中世地中海都市の中でも突出しており、1667年大地震後の再建もほぼ同一のアーバンフットプリントを維持した。

遺産の概要

ドゥブロヴニク旧市街は、クロアチア最南端ダルマチア海岸に位置する、全長約1,940メートルの城壁に囲まれた中世都市国家の遺構である。7世紀にビザンツ帝国の植民都市ラグーサとして建設され、13世紀以降はラグーサ共和国として独立した都市国家を形成した。オスマン帝国とヴェネツィア共和国という二大勢力の間で高度な外交術と商業ネットワークを駆使して繁栄し、「アドリア海の真珠」と呼ばれた。1979年にユネスコ世界遺産に登録されたこの都市は、完全性の高い中世都市景観と優れた建築群で知られる。しかし1991〜92年の内戦での砲撃、そして現在の観光過密という二重の危機に直面している。

ラグーサ共和国:外交と商業が生んだ都市国家の奇跡

ドゥブロヴニクの前身であるラグーサ共和国(正式名称:ラグーザ共和国、クロアチア語:Dubrovačka Republika)は、1358年から1808年のナポレオンによる解体まで、実に450年間にわたって独立を維持した小都市国家である。最盛期の人口は約3万人に過ぎなかったが、地中海交易の要衝として並外れた繁栄を誇った。

ラグーサ共和国が独立を保てた最大の理由は、軍事力ではなく外交力にあった。共和国は同時にオスマン帝国とハプスブルク家双方に対して通商条約を結び、巧みな等距離外交で侵略を回避し続けた。オスマン帝国への年貢を納めながら、カトリック文化を維持し、ヴェネツィアの支配下にも入らなかった。この絶妙なバランス外交は、小国が大国の隙間で生き残るモデルとして現代の国際政治学でも引用される。

都市の物質的成熟は1272年のStatuta Ragusinaに示されている。この都市条例は衛生規定・建築基準・奴隷貿易禁止規定(1416年、ヨーロッパ最初の奴隷制廃止法とも言われる)まで含む包括的な都市行政法典であった。中心を貫くプラツァ通り(ストラドゥン)の幅約30メートルという設計は、現代の歩行者専用空間と見紛うほどの先進性を持つ。石灰岩の白い板石が敷き詰められた街路は、磨耗により今や鏡面のように光る。

港を見下ろすレクトル宮殿、フランシスコ修道院(内部に現存するヨーロッパ最古の薬局の一つ、1317年創業)、大聖堂など、15〜17世紀に建設された建造物群は、ゴシックとルネサンスが融合した独自の「ラグーサン様式」を形成した。1667年の大地震で旧市街の大半が倒壊したが、共和国は瞬時に同一街路計画で再建を決定し、現在の景観の基礎を作った。

1991〜92年砲撃:世界遺産が戦争犯罪になった日

1991年6月、ユーゴスラヴィア連邦からのクロアチア独立宣言をきっかけに武力紛争が勃発した。同年10月、セルビア・モンテネグロ合同軍(ユーゴスラヴィア人民軍)はドゥブロヴニクを三方から包囲した。制海権も掌握したこの包囲は翌年5月まで続いた。

1991年12月6日、砲撃は最も激しさを増した。この日だけで19名が死亡し、旧市街内の建造物の約68%が何らかの被弾を受けた。世界遺産登録済みの城壁内には正規の軍事目標は存在せず、ユネスコやECオブザーバーが現地で確認した。CNNによるリアルタイム映像が世界に配信され、「戦争と文化遺産」という問題が初めて国際世論の前面に登場した。

重要なのは、この砲撃が後の国際法に残した先例である。旧ユーゴ国際刑事裁判所(ICTY)は2005年、攻撃を指揮したパヴレ・ストルガル将軍に「文化財の不当な破壊」を含む戦争犯罪を認定し、禁固8年の判決を下した。ユネスコ条約や1954年ハーグ条約が明文で保護する文化遺産への意図的攻撃を国際刑事裁判所が有罪とした最初の事例として、その後のシリア・マリ・イエメンなどの文化財破壊をめぐる訴追に道を開いた。

戦後の修復は急速に進んだ。クロアチア政府とユネスコの協力のもと、10年以内にほぼすべての建造物が外観上は修復された。しかし石灰岩の新旧の色差は今なお明瞭で、どの建物がどの程度被弾したかを雄弁に物語っている。旧市街内の「戦争写真博物館」は、この記憶を現在進行形で伝え続けている。

ゲーム・オブ・スローンズと「観光公害」という新たな脅威

砲撃の傷が癒えた2010年代、ドゥブロヴニクは全く異なる種類の圧力にさらされることになった。HBOドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」(2011〜2019年放映)で「キングズ・ランディング」のロケ地として使われたことで、世界規模のポップカルチャー巡礼地になったのである。

2010年代後半、旧市街への年間訪問者数は400万人を突破した。最大幅50メートルにも満たない旧市街のコア部分に、1日最大で数万人が流入するケースが記録された。石灰岩の石畳は剥離・摩耗が進み、城壁の手すりは無数の手によって表面が変化した。住民はかつて5,000人以上が旧市街に暮らしていたが、観光圧力による家賃高騰と生活環境悪化で旧市街内の居住者は2020年代に2,000人を割り込んだという推計もある。

クロアチア当局は2019年以降、クルーズ船の一日寄港数を制限し、旧市街への入場者数上限の設定を試みた。しかしパンデミック後の観光急回復でルール遵守率は低下している。学術的には、この現象は「フィルムツーリズム」と「世界遺産ブランド」が掛け合わされたときの持続可能性の問題として注目され、ドゥブロヴニクはヴェネツィアやバルセロナと並ぶオーバーツーリズム研究の標準的事例となっている。

気候変動もリスクに加わる。地中海東部での海面上昇と嵐の頻度増加は、海岸沿いの城壁と港湾インフラに長期的な浸食圧力をかけている。砲撃という外部暴力と観光という内部消費という二つの危機を経験した「アドリア海の真珠」は、21世紀の文化遺産管理が直面する課題を凝縮した実験場でもある。

記録メモ

項目内容
UNESCO ID95
登録年1979年(1994年に危機遺産リストに追加、2006年除外)
1991〜92年砲撃被弾率旧市街建造物の約68%が被弾、9棟が全壊
ICTY判決パヴレ・ストルガル将軍に禁固8年(2005年確定)
年間訪問者数(2019年)約400万人超(居住人口の約100倍)
ラグーサ共和国の独立期間1358〜1808年(約450年間)