トゥンヤイ=ファイ・カー・ケーン野生動物保護区:東南アジア最後の原生林に棲む絶滅危惧大型哺乳類7種の砦
タイ最大、東南アジア有数の野生動物保護区。面積は約64万ヘクタールに及び、ガウル・バンテン・アジアゾウ・トラ・ヒョウ・スンダウンピョウ・クマが全て生息する「大型哺乳類の最後の砦」として1991年に世界遺産登録された。1990年代に計画されたナムチョアンダム建設は環境NGOの歴史的勝利によって撤回されたが、ミャンマー国境沿いに位置するため密猟・不法伐採との戦いは現在も続く。
- ミャンマー国境を越えた密猟・野生動物の違法取引
- 不法伐採と農地転換による生息地の断片化
- 上流域における大規模ダム・インフラ開発計画
- 観光客の増加と不適切なエコツーリズム管理
遺産の概要
タイ西部、ミャンマーとの国境地帯に広がるトゥンヤイ=ファイ・カー・ケーン野生動物保護区は、面積約64万ヘクタールを誇る東南アジア最大級の保護区複合体である。トゥンヤイ野生動物保護区(1974年指定)とファイ・カー・ケーン野生動物保護区(1972年指定)の2つが連続して広がり、1991年にユネスコ世界自然遺産として登録された。登録基準には自然美(vii)、生態系の進行中のプロセス(ix)、生物多様性保全(x)の3つが適用されており、特に大型哺乳類の生息密度と生物多様性の豊かさが高く評価されている。
東南アジア最後の「大型哺乳類の方舟」
この保護区が世界的に注目される最大の理由は、東南アジアで最大規模の原生林を背景に、絶滅危惧種の大型哺乳類が揃って生息しているという稀有な事実にある。ガウル(インドバイソン)、バンテン(東南アジア野牛)、アジアゾウ、インドシナトラ、インドシナヒョウ、スンダウンピョウ、マレーグマ——これら7種の大型哺乳類が単一の保護区に共存する例は、地球上でももはや数えるほどしか残っていない。
ガウルとバンテンはともに大型の野牛属だが、ガウルが丘陵地の密林を好むのに対し、バンテンは開けた草地や二次林を利用するという生態的分業が成立しており、地形的変化に富むこの保護区ならではの共存が実現している。インドシナトラは2022年時点で推定200頭未満とされており、この保護区が種の存続において果たす役割は計り知れない。
また鳥類についても、600種以上が記録されており、その中にはカムイコウノトリ(ペインテッドストーク)や絶滅危惧のオオカラスバトなど希少種が含まれる。植生もシーク(チーク)林、熱帯混交落葉樹林、常緑熱帯雨林、竹林と多様で、これが動物の多様性を支える基盤となっている。標高は100メートルから1,800メートル以上まで変化し、モンスーン気候と山岳地形が複雑に絡み合うことで、複数の生態系が同一保護区内に成立している。
ナムチョアンダム計画撤回——タイ環境保護運動の歴史的勝利
1980年代後半、タイ政府は保護区の中心部を流れるクワイノーイ川支流にナムチョアンダムを建設する計画を発表した。完成すれば発電容量は580メガワットに達するとされ、急速な経済成長を続けるタイのエネルギー需要を賄うため、国家プロジェクトとして推進された。しかしこのダムは、世界遺産の中核地域を水没させ、数万ヘクタールの原生林を失わせる危険性があった。
反対運動の核となったのは、Wildlife Fund Thailand(現WWFタイ支部)をはじめとする環境NGOと、地元カレン族コミュニティだった。彼らは科学的データを提示し、国際世論に訴えかけ、世界遺産委員会も懸念を表明した。1988年には大規模な洪水がタイ南部を襲い、森林破壊と水害の関係が広く認識されたことも追い風となった。最終的に計画は1989年に撤回され、これはタイにおいて環境NGOが大型開発計画を阻止した最初の事例として記録される歴史的転換点となった。
この勝利はタイの環境行政にも影響を与え、1989年にはタイ全土で商業伐採が禁止される法改正につながった。保護区の「生存」はただの自然保護の問題ではなく、市民社会の成熟を示す政治的出来事でもあった。
ミャンマー国境という「開いた傷口」——現在進行形の脅威
世界遺産登録から30年以上が経過した現在も、この保護区は深刻な脅威にさらされ続けている。最大の問題はミャンマーとの長大な国境線(総延長350キロメートル以上)だ。国境の反対側には同様の保護区が存在せず、密猟者や野生動物トレーダーにとってのアクセスルートとなっている。
トラの骨・胆汁、象牙、バンテンの角——これらは中国・ベトナムを中心とした違法野生動物取引市場で高値で取引される。2021年のミャンマー軍事クーデター以降、国境地帯の行政空白が広がったことで密猟圧力はさらに高まったという報告もある。タイ側のレンジャーは人員不足と広大な面積の管理という困難に直面しており、1人のレンジャーが担当する面積は日本の保護区と比較して数十倍に及ぶ。
対策としては、WWF・WCS(野生生物保全協会)との協力によるカメラトラップ網の整備、DNAデータベースを利用した密猟個体の追跡、地元コミュニティを巻き込んだ「森の番人」プログラムが実施されている。しかし根本的な解決には地域国際協力が不可欠であり、国境を跨いだ生態回廊の形成がASEAN自然保護の重要課題となっている。
カレン族の知恵と共存の現在
この保護区の特筆すべき側面の一つは、先住民族カレン族との関係性だ。彼らは数百年以上にわたってこの森の中で焼畑農業と採集を組み合わせた生活を営んできた。世界遺産登録の際、単純な人間排除型の保護政策ではなく、カレン族の伝統的土地利用を緩衝地帯で継続することを認めるアプローチが採用された。
カレン族の伝統的な「ローテーション農業」は森の再生を組み込んだ持続可能な土地利用であり、生物多様性の維持にも貢献しているという研究もある。一方で観光開発の圧力や若者の都市流出により、伝統的な森との関係が失われつつあるという懸念も存在する。
「人が住まない保護区」と「人と共存する保護区」のどちらが真の意味で持続可能なのか——トゥンヤイの事例は、世界の保護区管理に普遍的な問いを投げかけている。
記録メモ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| UNESCO ID | 591 |
| 登録年 | 1991年 |
| 総面積 | 約642,202ヘクタール(四国とほぼ同面積) |
| 記録哺乳類数 | 120種以上(大型哺乳類7種含む) |
| 記録鳥類数 | 600種以上 |
| 最高標高 | 約1,813メートル(フアエン山) |
| 共同管理機関 | タイ国立公園・野生動物・植物局(DNP)+ WWF / WCS |