レイク・ディストリクト
イングランド北西部に広がるレイク・ディストリクトは、数千年にわたる農牧業の営みが堆積した「文化的景観」として評価され、2017年に世界文化遺産に登録された。羊飼いが築いた石垣と自然が融合した美しい風景は、ワーズワースらロマン主義の詩人に賛美され、後にビアトリクス・ポターによるナショナル・トラストへの多大な貢献に繋がった。
遺産の概要
イングランド北西部に広がるレイク・ディストリクトは、2017年にUNESCO世界文化遺産に登録された。登録面積は2,362平方キロメートル、イギリス最大の国立公園でもある。エンダーミア湖やウィンダミア湖など16の湖沼と、スコーフェル・パイク(977メートル)を頂点とする山岳地帯が織りなす景観は、単なる自然地形ではない。数千年にわたる農牧業の営みが堆積した「文化的景観」として評価され、登録基準のⅴ(人間と環境の相互作用)とⅵ(遺産との直接的関連性)の両方を満たした。
この地域の景観を特徴づけるのは、ドライストーン・ウォール(乾石積みの石垣)の網の目だ。総延長7,200キロメートルに及ぶ石垣が、丘陵の斜面を細かく区切り、羊の放牧地を画している。セメントを一切使わず、地元のスレート石を組み合わせるだけで築かれたこの構造物は、地域固有の農業技術の結晶であり、景観の骨格そのものでもある。湖水地方の「絵のような風景」は、実のところ何世代もの農民による肉体労働の産物である。
ロマン主義運動と景観の「発明」
レイク・ディストリクトが「美しい」とみなされるようになったのは、18世紀後半のことだ。それ以前、急峻な山岳地帯と荒れた湿地は、旅行者が避けるべき不毛の地として認識されていた。景観の価値を「発明」したのは、ロマン主義の詩人と批評家たちである。
ウィリアム・ワーズワース(1770-1850)はこの地に生まれ、生涯の大半をグラスミアで過ごした。彼の詩は自然の崇高さを謳い、内面と風景の照応関係を言語化した。1810年に出版した『レイク・ディストリクット案内』は、旅行ガイドの体裁をとりながら、どのように風景を「正しく」鑑賞するかを指南した文化的マニフェストでもある。ジョン・ラスキンは後に湖畔のコニストンに移り住み、自然の美的秩序についての思想を深めた。彼らの言説が、この地域を感受性ある人間が巡礼すべき聖地として位置づけた。
しかしここに逆説がある。ロマン主義者たちが「原始的な自然」として賛美した景観は、実際には人間の農業活動によって造形された人工環境だった。牧草地をつくるために森林は伐採され、石垣が引かれ、羊が丘を歩き回ることで植生が管理されてきた。詩人たちが「手つかずの自然」と呼んだものは、農民たちが毎日手を入れ続けた景観だったのだ。
ナショナル・トラスト誕生の現場
ビアトリクス・ポター(1866-1943)の名は、『ピーターラビットのおはなし』の作者として世界中に知られている。しかし湖水地方における彼女の実像は、可愛らしい絵本作家というイメージとはかけ離れている。ポターは熱心な農場経営者であり、ヘアフォードシャー種とスウォールデール種の羊の育種家であり、土地保全の戦略的投資家だった。
ロンドン生まれの裕福な家庭に育ったポターは、絵本の印税を使って1905年からニア・ソーリーの農場を買い始めた。最終的に彼女が購入した農場と土地は14カ所、4,000エーカー以上に達した。その目的は明確だった。開発業者からこの景観を守り、在来農法と景観の一体性を維持することである。1943年に死去した際、ポターはすべての土地をナショナル・トラストに遺贈し、羊の群れとともに農場を運営し続けることを条件とした。
ナショナル・トラストは1895年に設立された民間団体で、歴史的・自然的価値のある土地を永続的に保全することを目的としている。レイク・ディストリクトはその活動の原点のひとつであり、現在同団体はこの地域で25,000ヘクタール以上の土地を保有している。ポターの遺贈は、個人の財産を公共の景観として「凍結」するというナショナル・トラストの保全哲学を体現した行為だった。
観光過剰と農業後継者問題
レイク・ディストリクトは年間1,500万人以上の観光客を集める。そのプレッシャーは、この景観を成立させてきた農業そのものを脅かしている。
観光業の隆盛によって地価と家賃が高騰し、地元の農家の子弟が農業を継続できなくなっている。石垣の補修技術を持つ職人は高齢化し、後継者が育っていない。ドライストーン・ウォール7,200キロメートルの維持には膨大な手作業が必要だが、その担い手が消えつつある。「景観を守るために観光客が来る」が「観光客が来るために景観を維持する人がいなくなる」という逆説的な危機が進行している。
EU離脱に伴う農業補助金制度の変更も追い打ちをかけた。従来の共通農業政策による直接支払いから、「公共財としての農業」への転換を目指すイングランドの新制度は移行期にあり、在来農法を継続する農家への支援が不安定になっている。羊の価格が低迷する中、補助金なしに丘陵農業を継続することは経済的に成立しにくい。
世界遺産登録は保全への国際的な関心を高めた一方、観光圧力をさらに増大させた。訪問者の集中する人気スポットでは、歩道の侵食と植生破壊が深刻化している。「発見」されることで失われていく——レイク・ディストリクットが直面する危機は、文化的景観という遺産カテゴリーの構造的矛盾を映し出している。
記録メモ
- 登録基準: ⅴ(人間と環境の相互作用を示す土地利用の傑出した事例)、ⅵ(ロマン主義運動との直接的・具体的関連性)
- 登録年: 2017年(比較的新しい登録)
- 面積: 2,362 km²(バッファーゾーン含む)
- ドライストーン・ウォール総延長: 約7,200 km
- ナショナル・トラスト保有面積: 25,000ヘクタール以上
- ビアトリクス・ポター遺贈: 4,000エーカー超(1943年)
- 年間訪問者数: 約1,500万人
- 最高峰: スコーフェル・パイク 977m(イングランド最高峰)
- 主要湖沼: ウィンダミア湖(イングランド最大の自然湖)、エンダーミア湖、デューウォーター湖など16湖
- 在来羊品種: ハードウィック種(この地域固有の品種。急峻な丘陵地に適応)
- 関連人物: ワーズワース、コールリッジ、ラスキン、ビアトリクス・ポター、アーサー・ランサム