廃村から180年、倒れゆく19本のトーテムポールが語る滅亡と再生
カナダ・ブリティッシュコロンビア州沖のハイダ・グワイ諸島に残るスカン・グワイ(旧称ニンスティンツ)は、1880年代に天然痘によって人口の90%以上が失われ放棄された集落跡だ。現存する19本のトーテムポールと家屋柱は、ハイダ族の「自然に朽ちるに任せる」という哲学のもと修復も防腐処理もされず、ゆっくりと大地へ還りつつある。滅亡と再生、喪失と主権回復という二重の物語を刻む場所として、1981年にユネスコ世界遺産に登録された。
概要
スカン・グワイ(Sgang Gwaay、ハイダ語で「赤いコッド岬」)は、カナダ・ブリティッシュコロンビア州のハイダ・グワイ諸島(旧称クイーン・シャーロット諸島)最南端のアンソニー島に位置する、ハイダ族の放棄された集落跡である。英語名ではニンスティンツ(Ninstints)とも呼ばれる。
1981年、ユネスコ世界文化遺産に登録されたこの場所には、現在も19本のトーテムポールと家屋の柱の残骸が、海風と苔と時間に侵食されながら立ち続けている。修復も防腐処理も施されないまま——それはハイダ族の意志によって、そう決められている。
ハイダ文明の繁栄と天然痘による崩壊
ハイダ・グワイ諸島は「太平洋のガラパゴス」とも称される生態的多様性を誇り、1万年以上前から人が居住してきた。ハイダ族はこの島々で卓越した航海技術と木工芸術を発展させ、太平洋岸北西部における交易・戦争・外交の中心勢力となった。スカン・グワイはその中でも有力なハイダの首長が治める集落であり、17世紀から18世紀にかけては300〜500人が暮らす繁栄した共同体だった。
転機は19世紀のヨーロッパ人との接触だった。毛皮交易がもたらした利益の影に、免疫を持たない先住民社会を壊滅させる疫病が潜んでいた。1862年のビクトリア天然痘流行は壊滅的だった。ハイダ族全体で推定1万5,000〜2万人いた人口は、1880年代までに約600人にまで減少した——90%以上の喪失である。スカン・グワイの住民は生存者が減るにつれ他の集落へと移り、1880年代初頭、最後の住民がこの地を去った。
残されたのは、精巧に彫られたトーテムポールと、家屋の骨格だけだった。
「朽ちることを選ぶ」哲学という逆説
世界遺産登録後、国際社会からは当然のように保存・修復の提案が寄せられた。しかしハイダ族の長老たちは明確に断った。
ハイダ族にとって、トーテムポールは単なる記念碑ではない。それは先祖の霊と一族の歴史を宿した生きた存在であり、木が生まれ、育ち、やがて大地に還るという自然の循環の一部である。朽ちることは終わりではなく、完成である。人工的な防腐剤で「死」を先延ばしにすることは、その循環を断ち切る冒涜に他ならない——そうした哲学がこの決断の背後にある。
「彼らは永遠を望まなかった。彼らは正しい死に方を望んだ」と、ハイダ・グワイ世界遺産委員会の関係者は語る。
この哲学は、西洋的な保存思想の根本的な前提——「残すことは良いことだ」——に正面から挑戦する。ユネスコもまた、この遺産においては前例なく先住民の世界観を保存方針の中心に据えることを選んだ。現在、遺跡への立ち入りはハイダ族の保護員(ワーデン)の同行のもとでのみ許可され、年間の訪問者数も厳しく制限されている。
ハイダ族による主権回復と保護活動
スカン・グワイの遺産管理は、先住民による土地主権回復運動の歴史とも深く絡み合っている。
1985年、ハイダ族はハイダ・グワイの南端部における大規模伐採計画に抗議するため、道路を封鎖する直接行動に出た。この運動は最終的に、1988年のグワイ・ハアナス協定の締結につながり、カナダ政府とハイダ族による「共同管理」という前例のないモデルが生まれた。スカン・グワイを含むグワイ・ハアナス国立公園保護区は、この協定のもとで管理されている。
2010年には、ハイダ族が居住する諸島全体の名称が、植民地時代の名称「クイーン・シャーロット諸島」から先住民名「ハイダ・グワイ」へと公式に変更された。これはカナダの歴史において、先住民の地名が州政府によって公式採用された最初の事例となった。
倒れゆく19本のポールは、滅亡の証人であると同時に、主権回復の証人でもある。スカン・グワイが問いかけるのは、「何を残すか」ではなく「誰が決めるか」という、遺産保護の本質的な問いである。