サマルカンド:アレクサンドロスが賞賛し、ティムールが世界の知を集めた都市
中央アジアのシルクロード最大の都市サマルカンドは、アレクサンドロス大王が征服した際に「聞いていた以上に美しい」と賞賛した。14〜15世紀にティムール(タメルラン)が世界征服の後に首都として建設した青のタイル建築群(レギスタン広場など)は、イスラム建築の頂点のひとつとして現代も輝きを保っている。
- 土台の地下水位上昇による建物の劣化
- 観光客増加による建物へのダメージ
- 修復工事の品質管理問題(過剰な近代化)
遺産の概要
サマルカンドはウズベキスタン南部、ゼラフシャン川沿いに位置する中央アジア最古の都市のひとつ。人が定住した記録は紀元前7〜8世紀にさかのぼる。シルクロードの要衝として、東アジア・南アジア・中東・ヨーロッパをつなぐ交易・文化交流の中継点として機能し続けた。
2001年にUNESCO世界遺産に登録された「サマルカンド——文化交差点」は、主要な建造物群(レギスタン広場・ビビ・ハヌム・モスク・シャフリサブスのグリ・アミール廟など)を含む。
現在も人口約50万人が暮らす現役の都市であり、古代の遺跡と現代都市が共存している点が特徴だ。
アレクサンドロスから始まる征服の歴史
紀元前329年、アレクサンドロス大王のマケドニア軍がサマルカンド(当時の名:マラカンダ)を征服した。アレクサンドロスはその美しさに感動し「聞いていた以上に美しいが、一か所だけ期待外れだった」と述べたと伝わる(一説には「なぜ都市の中心に市場があるのか理解できない」という意味だとされる)。
その後サマルカンドはセレウコス朝・クシャーナ朝・ソグド人の自治都市・唐の間接支配・アラブのウマイヤ朝・アッバース朝・サーマーン朝と支配者が変わり続けたが、交易都市としての機能は維持された。1220年、チンギス・ハンのモンゴル軍が征服し、都市は一時的に壊滅的な破壊を受けた。
ティムールの青い都:イスラム建築の頂点
サマルカンドの現在の姿を決定的に形作ったのは、14世紀の征服者ティムール(タメルラン、1336〜1405年)だ。モンゴル系の出身でイスラム教に改宗したティムールは、ペルシャ・インド・トルコ・ロシアに軍事遠征を行い、征服した地から最高の職人・学者・建築家・芸術家をサマルカンドに連れてきた。
彼が建設した主要建造物:
レギスタン広場:3つの大型マドラサ(神学校)が広場を囲む構成。青・緑・白・金のタイルで飾られたファサードは、イスラム建築の幾何学的装飾の頂点のひとつ。ウルグ・ベク・マドラサ(15世紀)、シェル・ドル・マドラサ(17世紀)、ティラ・カリ・マドラサ(17世紀)の3棟が現存する。
ビビ・ハヌム・モスク:ティムールがインド遠征(1398年)の戦利品と職人で建設した巨大モスク。完成当時は世界最大のモスクのひとつだったが、ティムールの死後すぐに構造的問題が生じ、15世紀には使用不能になった。現在は修復されて観光地化されている。
グリ・アミール廟:ティムール本人とその子孫(ウルグ・ベクを含む)が埋葬されている廟。青いドームが特徴的。1941年、ソ連の人類学者ゲラシモフがティムールの頭蓋骨から顔を復元した——ナチス・ドイツがソ連に侵攻したのは棺を開けた翌日だったという伝説が現地に残る。
ウルグ・ベクと天文台:王の科学と悲劇
ティムールの孫ウルグ・ベク(1394〜1449年)はサマルカンドの統治者でありながら、当時世界最高水準の天文学者だった。1428年に建設した天文台(セクスタントの半径は40メートル)で、1018個の星の位置を測定し、当時最も精度の高い星表(ズィージ・スルターニー)を作成した。現代の観測値との誤差は1分以内というものもある。
しかし1449年、ウルグ・ベクは息子によって廃位され、メッカへの巡礼中に暗殺された。科学的合理主義と宗教的保守主義の対立がその背後にあったとされる。天文台は彼の死後まもなく破壊された。現在は地下に残ったセクスタントの石造遺構が発掘・展示されている。
記録メモ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| UNESCO ID | 603 |
| 登録年 | 2001年 |
| 最初の記録 | 紀元前7〜8世紀 |
| アレクサンドロス征服 | 紀元前329年 |
| ティムール統治 | 14〜15世紀 |
| 現在の人口 | 約50万人(現役都市) |
| ウルグ・ベク天文台 | 1428年建設・死後破壊 |