ヒヴァ歴史地区イチャン・カラ:砂漠の生きた博物館都市と消えた奴隷市場
ウズベキスタン西部の砂漠オアシス。二重城壁に囲まれた内城「イチャン・カラ」は2,000人以上が現在も居住する生きた博物館都市。54mの未完成ミナレット(イスラム・ホジャ)は1852年の工事凍結のまま。ヒヴァは19世紀まで中央アジア最大の奴隷市場として知られ、ロシア帝国の征服(1873年)によって廃止された。
- 観光地化による住民流出と空洞化
- 土造建築の風化と修復技術者不足
- 過剰な修復による真正性の損失
- 砂漠の塩害と乾燥による基礎侵食
遺産の概要
イチャン・カラは、ウズベキスタン北西部ホラズム州の都市ヒヴァの旧市街にあたる内城だ。「イチャン」はウズベク語で「内部の」を意味し、外城(ディシャン・カラ)の内側に位置する高さ約10メートルの城壁に囲まれた約26ヘクタールのエリアを指す。
17〜19世紀のヒヴァ・ハン国の権力の中心として機能したこの内城には、現在も約2,000人以上の住民が生活している——世界遺産に登録されている城壁内に、現役の居住地区が存在するという点で稀有な例だ。
主要な建造物:
- クフナ・アルク(旧城):17世紀建設のハン(君主)の宮殿
- タシュ・ハウリ宮殿(1838年):200以上の部屋を持つ宮廷建築
- イスラム・ホジャ神学校とミナレット(1910年):ヒヴァ最高・最後の神学校
- カルタ・ミノル(未完成ミナレット):1852年工事凍結、底部直径14.2m、現在の高さ約29m
未完成ミナレットの政治的中断
旧市街の入口近くに立つカルタ・ミノル(「短いミナレット」の意)は、1852年にムハンマド・アミン・ハンによって着工された。
設計では74メートルの高さを目指していたとされる。しかし工事は底部29メートルの時点で永久に凍結された。凍結の理由は、建設中の1855年にムハンマド・アミン・ハン本人がトルクメン軍との戦闘で戦死したためだ。
後世には別の説も広まっている——「完成すると宮殿から見下ろされる高さになるため、ハン自身が工事を止めた」という。史料的には前者(戦死による中断)が有力だが、底部の直径が約14メートルという異様な太さ(完成時のプロポーションを考えると過剰な太さ)は、設計意図に何らかの特異性があった可能性を示唆している。
建設が中断されたまま1世紀半が経過し、今では「未完の方が美しい」という評価もある。
中央アジア最大の奴隷市場
ヒヴァは18〜19世紀にかけて、中央アジアで最も規模の大きな奴隷市場のひとつとして知られた。
扱われた「商品」の主な出自は:
- イランからのペルシャ人シーア派ムスリム(スンニ派ヒヴァとの宗派対立を背景にした人身売買)
- カスピ海周辺からロシア帝国臣民(捕虜・誘拐被害者)
- 中央アジア各地の農耕民
特にロシア人の奴隷問題は外交問題に発展した。19世紀前半、ヒヴァには数千人のロシア帝国臣民が奴隷として抑留されていたとされる。ロシア帝国は1839年と1873年の2度にわたってヒヴァへの遠征軍を送った。2度目(1873年)の遠征が成功し、ヒヴァは保護国として事実上ロシアの支配下に入った。
ロシア帝国の征服直後、奴隷市場は公式に廃止された。征服の動機は「自国民解放と文明化」として語られたが、中央アジアの農産物・綿花・交易路の確保という帝国主義的目的と切り離すことはできない。
世界遺産と「生きた都市」の矛盾
イチャン・カラが世界遺産として特異なのは、1990年の登録当時から城壁内に住民が生活し続けていることだ。
「生きた遺産都市」はUNESCOが価値を認める要素のひとつだが、それを維持することは難しい。観光収入が増加するほど、旧市街内の不動産価値が上昇し、商業施設が拡大し、住居として使われていた建物がホテルやみやげ物店に転用される。住民が経済的に追い出される過程が、世界遺産の「生きた文化」を空洞化させる。
ヒヴァのイチャン・カラは現在、住民数が減少傾向にある。「生きた博物館都市」は徐々に「博物館化した都市」に変容している途上にある。
記録メモ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| UNESCO ID | 543 |
| 登録年 | 1990年 |
| 内城面積 | 約26ha |
| 現居住者数 | 約2,000人以上 |
| カルタ・ミノル着工 | 1852年 |
| カルタ・ミノル現在の高さ | 約29m(設計高さ74m) |
| ロシア帝国征服年 | 1873年 |
| 奴隷市場廃止 | 1873年(ロシア征服直後) |