ドナウ・デルタ:チャウシェスクが改造しようとした、ヨーロッパ最大の湿地
ドナウ川が黒海に注ぐ河口に広がる面積5,800km²の広大なデルタ地帯。ヨーロッパ最大の葦原、350種の鳥類、絶滅危惧のチョウザメ類が生息する生物多様性の宝庫。ニコラエ・チャウシェスク独裁政権下(1965〜1989年)に農業用地拡大のため大規模な干拓・運河建設が進められたが、政権崩壊で計画は中断した。
- 上流からの農業・工業汚染
- 過剰漁業によるチョウザメ・魚類資源の枯渇
- チャウシェスク時代の干拓地の遺産(水文変化)
- 気候変動による洪水パターンの変化
- 観光開発による湿地の破壊
遺産の概要
ドナウ・デルタはヨーロッパ最長の国際河川・ドナウ川が黒海に注ぐ河口部に形成された広大な三角州地帯だ。ルーマニアとウクライナにまたがる面積は約5,800km²(ルーマニア側:約4,152km²)で、ヨーロッパ最大の自然デルタとして知られる。
1991年にUNESCO世界遺産および生物圏保護区に指定された。デルタは3つの主要支流——キリア(北)・スリナ(中央)・スフントゥ・ゲオルゲ(南)——に分岐し、その間には無数の運河・湖沼・葦原・砂堆が複雑に入り組む水の迷宮を形成している。
生態系の豊かさ
ドナウ・デルタが世界遺産に登録された最大の理由は、その卓越した生物多様性だ。
鳥類:350種以上が確認されており、ヨーロッパ最大のペリカン(ハシビロペリカン・モモイロペリカン)繁殖地として知られる。コウノトリ・ダイサギ・サギ類・水鳥が数十万羽規模で集まり、渡り鳥の中継地としても最重要拠点のひとつだ。
魚類:45種以上の魚類が生息し、特に絶滅危惧種のチョウザメ類(ベルーガ・オシェトル・セブリュガ)は産卵のためにドナウ川を数百キロ遡上する。キャビアの原料として高値がつくため、密漁が深刻な問題となっている。
植物:ヨーロッパ最大の葦原(Phragmites australis)が広がり、その生態系は大量の鳥類の営巣地・餌場として機能している。
チャウシェスクの「デルタ改造計画」
1965年から24年間ルーマニアを支配したニコラエ・チャウシェスク政権は、国家の食料自給率向上を掲げて大規模な農業開発政策を推進した。ドナウ・デルタもその標的となった。
1970〜80年代にかけて、デルタの葦原・湿地の大規模干拓が行われた。堤防建設・排水ポンプ・農業用運河の整備により、数十万ヘクタールの湿地が農地・魚養殖池に転換された。しかし、この「改造」は生態系に深刻なダメージを与え、農地としても期待されたほどの生産性を上げられなかった。
1989年12月のルーマニア革命でチャウシェスクが処刑されると、計画は中断された。放棄された一部の干拓地はその後自然に戻りつつあるが、水文システムへの長期的ダメージは続いている。
保護と回復の現在
UNESCOとルーマニア政府は1990年代以降、デルタの回復プロジェクトを進めている。一部の干拓地をもとの湿地に戻す「再湿地化」が行われ、生態系の回復が確認されている地点もある。
しかし上流からの農業・工業汚染、チョウザメの密漁、観光客増加による圧力は続いている。チョウザメの商業漁獲は2006年にルーマニアで禁止されたが、密漁の取り締まりは容易でない。毎年わずかに前進する河口の地形と、毎年変わる生態系の状態——ドナウ・デルタは「完成していない」自然遺産として今も動き続けている。
記録メモ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| UNESCO ID | 588 |
| 登録年 | 1991年 |
| 登録基準 | (vii)(x) |
| デルタ面積(全体) | 約5,800km² |
| ルーマニア側面積 | 約4,152km² |
| 確認鳥類数 | 350種以上 |
| 主要絶滅危惧種 | ベルーガ(白チョウザメ)ほかチョウザメ類 |
| チャウシェスク干拓面積 | 数十万ヘクタール(推定) |
| チョウザメ商業漁獲禁止 | 2006年(ルーマニア) |