マチュ・ピチュ:「再発見」神話の裏側と、知っていた人たちの話
ペルーのアンデス山中、標高2,430メートルに建設されたインカの都市遺跡。1911年にアメリカの探検家ハイラム・ビンガムが「発見」したとして世界に知られるが、現地のケチュア人の農民はその存在を知り続けており、ビンガムを案内したのも地元の少年だった。「失われた都市の再発見」という物語は、誰の視点から語られた歴史かを問い直す。
- 観光過密(年間100万人超)による遺跡の磨耗
- 地すべり・侵食リスク
- インフラ開発(アグアス・カリエンテス町の拡大)
- 地震リスク
遺産の概要
マチュ・ピチュは、ペルー南部アンデス山脈の稜線上、標高2,430メートルに建設されたインカ帝国の都市遺跡だ。麓のウルバンバ川から見上げると雲に隠れた山頂に位置し、下からはその存在がほぼ視認できない。スペイン人による征服(1532年)後も発見されることなく放棄され、ジャングルに覆われていた。
遺跡は宮殿・神殿群(宗教地区)と、段々畑・住居群(農業・居住地区)に大きく区分される。インカ独特の「合わせ目技術」と呼ばれる石組み工法——モルタル(セメント)を使わずに石を精密に加工して噛み合わせる——は、現在もほぼ崩壊なく維持されている。
「再発見」の物語の構造
1911年7月24日、イェール大学の歴史学者・探検家ハイラム・ビンガム3世はペルー政府の支援を受けた遠征隊とともに、山岳地帯での「インカ都市探索」中にマチュ・ピチュに到達した。この出来事は「失われたインカの都市の劇的な発見」として世界中に報道され、現在もその物語は広く流布している。
しかし実態は異なる。ビンガムを案内したのは、遺跡内の段々畑で農業を営んでいた地元農民・アルティーノ・リチャルテの11歳の息子パブロだった。リチャルテ家は少なくとも数年前から遺跡を知り使用しており、地元のアグアス・カリエンテス周辺のケチュア人コミュニティにとって山頂の遺跡は秘密ではなかった。
ビンガム以前に遺跡に到達したとされるヨーロッパ人の記録も存在する。1902年、ペルー人のアグスティン・リサラガが岩に自分の名前と年を刻んでいる——ビンガム自身がその文字を確認している。
インカの石組み技術
マチュ・ピチュの建造物で最も注目される技術が「アシュラル(精密石積み)」だ。各石を精密に加工し、隣の石との接合面をほぼ完全に一致させて積み上げる方法で、ポルタルやモルタルは一切使用しない。
この技術の利点は耐震性だ。地震の揺れが伝わるとき、セメントで固定された石は大きな力を受けて破壊されるが、噛み合わせだけで固定された石は微妙にずれることでエネルギーを吸収し、揺れが収まると元に戻る——「転ばない積み木」のような性質を持つ。アンデス山脈は地震多発帯であり、この技術はその環境への適応と考えられている。
遺物返還と観光管理
ビンガムの発掘・持ち出しによりイェール大学ピーボディ博物館に移送されたマチュ・ピチュ関連遺物は約46,000点にのぼった。ペルー政府は数十年にわたり返還を求め続け、2012年にすべての遺物がペルーに返還された。
現在マチュ・ピチュへの年間訪問者数は約100〜150万人(コロナ前)に達しており、ユネスコとペルー政府は遺跡の損傷を防ぐため入場者数制限(1日上限2500〜5000人)を設けている。急増する観光需要に対し、麓の町アグアス・カリエンテスのインフラ拡大が遺跡周辺の自然環境を圧迫しているとして、危機遺産リスト掲載の可能性が繰り返し議論されている。
記録メモ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| UNESCO ID | 274 |
| 登録年 | 1983年 |
| 標高 | 2,430m |
| 建設年代 | 1450年頃(インカ帝国最盛期) |
| 放棄年代 | 1532年頃(スペイン征服前後) |
| ビンガムの「発見」 | 1911年7月24日 |
| 案内者 | パブロ・リチャルテ(当時11歳) |
| 発掘遺物の返還 | 2012年(イェール大学→ペルー) |