昌徳宮と後苑:朝鮮王朝の権威空間を動物園に変えた植民地の記憶
朝鮮王朝が1405年に建設したソウル中心部の離宮。78ヘクタールの自然庭園「後苑(ビウォン)」が本宮・景福宮より有名とされ、池・亭・花木が森の地形に沿って配置される。日本の植民地期(1910〜1945年)、昌徳宮は動物園として一般公開された——朝鮮王朝の権威空間を大衆娯楽施設に転用するという意図的な脱権威化の政策。
- 都市化による周辺環境・大気の変化
- 観光客増加による庭園生態系への負荷
- 木造建築の老朽化と維持費の問題
遺産の概要
昌徳宮(チャンドックン)は、朝鮮王朝第3代国王・太宗が1405年に建設したソウル(当時の漢陽)の離宮。正宮である景福宮の補完施設として建てられたが、歴史の流れの中で実質的な統治の場として景福宮より長く使われた。
現在のソウル中心部・鍾路区に位置し、宮殿建築と背後の「後苑(ビウォン)」合わせて約78ヘクタールの敷地を持つ。1997年のUNESCO世界遺産登録の理由のひとつとして、「自然地形と建築が一体となった東アジア庭園設計の卓越した例」という評価が挙げられている。
後苑(秘苑)——自然を整形しない庭園
後苑は昌徳宮の北に広がる78ヘクタールの庭園。「秘苑(ビウォン)」とも呼ばれ、かつては王族のみが入ることを許された禁苑だった。
中国の皇帝庭園が広大な人工湖や整形樹木で「自然を制御する権力」を誇示するのに対し、後苑は既存の山地の地形・森・渓流をほぼそのまま活かし、そこに100棟以上の亭閣(パビリオン)と28の池を点在させる設計をとる。
最も有名な空간が「芙蓉亭」——六角形の亭閣が方形の蓮池の角に張り出す構図。朝鮮王朝の文人官僚が詩を詠み、学問を議論した場とされる。
壬辰倭乱と昌徳宮の歴史的役割の転換
昌徳宮が「離宮」から「実質的な本宮」に転換したのは、1592年の豊臣秀吉による朝鮮出兵(壬辰倭乱・文禄の役)がきっかけだった。
日本軍の侵攻に際して朝鮮国王・宣祖は漢陽を離れ、その間に景福宮・昌徳宮を含むほぼすべての宮殿が焼失した。戦後の再建では昌徳宮が先に整備され、景福宮が再建されるまでの270年以上の間(1615〜1868年)、昌徳宮が朝鮮王朝の実質的な本宮として機能し続けた。
景福宮より短い歴史のはずの離宮が、最も多くの朝鮮王朝の歴史を内包している——偶然が作り出した逆転だ。
植民地期の「動物園化」
1910年、日韓併合によって朝鮮王朝は終焉した。昌徳宮は李王家の居住施設として一部が使われたが、後苑と宮殿の一部は1911年から一般公開された。その際、後苑に動物園と植物園が設置され、市民の娯楽施設として開放された。
この「動物園化」は、朝鮮王朝において王族のみが立ち入れた神聖・権威空間を、日本の統治下で誰でも入れる大衆娯楽施設に転用するという意図的な行為として解釈されている。権威空間を脱神聖化する植民地統治の手法のひとつとして、韓国の歴史認識では重要な位置を占める出来事だ。
動物園は1983年に서울大公園(ソウル大公園)に移転し、現在の後苑は本来の庭園空間として復元されている。
記録メモ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| UNESCO ID | 816 |
| 登録年 | 1997年 |
| 建設年 | 1405年(太宗・朝鮮王朝第3代) |
| 本宮化した期間 | 1615〜1868年(景福宮再建まで) |
| 敷地面積 | 約78ヘクタール(後苑含む) |
| 後苑の亭閣数 | 100棟以上 |
| 後苑の池 | 28か所 |
| 日本植民地期の転用 | 動物園・植物園として公開(1911〜1983年) |