ハトラ:ローマ軍を二度退けた砂漠の要塞都市、2015年にISISが破壊
イラク北西部に位置するハトラは、パルティア帝国の要塞都市として栄えた「砂漠の難攻不落の城」。ローマ皇帝トラヤヌス(116年)とセプティミウス・セウェルス(198年)の二度にわたる包囲攻撃をいずれも撃退した。アッシリア・ヘレニズム・パルティア・ローマの建築様式が渾然一体となった「文明の混血建築」でもある。2015年、ISISが重機と爆発物で組織的に破壊し、ユネスコの緊急保護要請は間に合わなかった。
- ISISによる組織的な意図破壊(2015年):重機・爆発物による遺構の大規模損壊
- 武力紛争の継続と治安不安による調査・修復活動の停滞
- 略奪と不法発掘による出土遺物の散逸
- 乾燥・風食など砂漠環境による自然劣化
遺産の概要
ハトラ(Hatra)は、現在のイラク北西部ニーナワー県に位置する古代都市遺跡で、紀元前3世紀から紀元後3世紀にかけてパルティア帝国の重要な要塞都市として機能した。チグリス川とユーフラテス川の間に広がるメソポタミア北部の砂漠地帯に築かれたこの都市は、直径約2キロの円形城壁に守られた独特の都市構造を持ち、東西の交易路が交差する戦略的拠点として繁栄した。1985年にユネスコ世界遺産に登録されたが、2015年のISISによる組織的な破壊を受け、現在は「危機遺産リスト」に掲載されている。
ローマ帝国が二度退けられた「難攻不落の砂漠の城」
ハトラの名を歴史に刻んだのは、ローマ帝国との二度の軍事対決である。
116年、ローマ帝国の最大版図を実現した皇帝トラヤヌスは、パルティア遠征の一環としてハトラの攻略を試みた。当時のローマ軍は地中海世界最強の攻城技術を誇り、カルタゴをはじめ難攻不落とされた都市を次々と陥落させてきた。しかしハトラはこの大軍を退けた。史料によれば、灼熱の砂漠気候と補給線の困難に加え、守備側が城壁上から投下した「ナフサ(石油)を含む火炎弾」が攻城兵器を焼き払ったとされる。石油産出地帯に近いメソポタミア北部の地理的優位が、防衛に活かされたのである。
82年後の198年、皇帝セプティミウス・セウェルスがより大規模な軍勢でハトラを再び包囲した。20日間の包囲戦を経ても城壁を突破できず、ローマ軍は再度撤退を余儀なくされた。これにより「ローマが二度敗れた城」という歴史的神話が確立され、ハトラの防衛力は中東全域に名声を轟かせた。
この鉄壁の守りを支えたのは、高度に計算された都市設計だった。中心部の神殿群を囲む内城壁と、直径2キロに及ぶ外城壁の二重構造、その外側の深い堀——全体がほぼ完全な円形に設計された都市は、いかなる方向からの攻撃に対しても均等な防衛力を発揮した。現代の軍事建築家が見ても驚嘆するこの設計思想は、パルティア人が独自に発展させた要塞工学の到達点であった。
3世紀中頃、台頭するサーサーン朝ペルシアによってハトラはついに陥落する。ローマを退けた城も、内部からの崩壊には抗えなかった。その後、都市は廃棄され、砂漠の砂に埋もれていった。
「文明の混血建築」——アッシリアからローマまでの四文明が融合した神殿群
ハトラの建築遺構が学術的に極めて重要とされる理由は、防衛能力ではなく「様式の混血」にある。
都市の中心に位置する神殿複合体(テメノス)には、複数の宗教と複数の建築文化が驚くべき形で共存していた。ギリシア・ヘレニズム様式の列柱、メソポタミア(アッシリア)の基壇建築、パルティア独自のアイワーン形式、そしてローマ建築のアーチ技法——これら四つの建築伝統が、単一の宗教空間の中に並存していたのである。
特筆すべきはアイワーンの採用である。アイワーンとは、三方を壁で囲まれ前面が開放されたアーチ型の大広間で、イラン高原に起源を持つ建築形式だ。ハトラの神殿群は、この様式を大規模な宗教・公共建築に世界で初めて本格採用した事例として知られている。後のイスラーム建築——モスクの礼拝空間から隊商宿(キャラヴァンサライ)に至るまで——アイワーンは基本単位として継承されており、ハトラはその直接的な原型のひとつとみなされる。
神像の多様性もまた驚くべきものがあった。ギリシア神話のヘルメスやアテナの彫像と、メソポタミアの嵐神ニルガルや太陽神シャマシュの像が、同一の祭壇空間に並んで祀られていた。これはハトラが単なる要塞ではなく、東西の交易路に沿って集まる異なる民族・宗教を包摂する「国際都市」として機能していたことを示す証拠である。
1985年のユネスコ登録評価では、基準(ii)「人類の価値観の重要な交流」と基準(iii)「文明の証拠」が適用された。この「文明の混血建築」としての価値こそ、ハトラが世界遺産として認められた本質的理由であった。
2015年、ISISによる組織的破壊——間に合わなかった緊急保護
2015年3月7日、ハトラは人類史上最も記録された文化財破壊のひとつの現場となった。
ISISは2014年以降、イラク北部の広大な地域を支配下に置いていた。彼らは「異教の偶像崇拝」を排除するという名目のもと、モスルの博物館で展示品を破壊し、古代アッシリアの都市ニムルドをブルドーザーで平坦にした。そしてハトラへも組織的な破壊部隊を派遣した。
破壊は複数段階で実行された。まずドリルと工具で彫像・レリーフの細部を削り取り、次にハンマーで大型の石造構造物を打ち砕き、最終的には爆発物を用いて主要な神殿建造物を爆破した。すべての過程が高品質の動画として記録・公開され、国際社会への心理的衝撃を最大化することが意図されていた。
ユネスコはISISの支配拡大の時点で緊急保護を求める声明を発出していたが、戦闘状態にある地域への実効的な介入手段を持たなかった。世界遺産委員会は2015年に正式にハトラを「危機遺産リスト」へ追加登録し、ISISによる破壊行為を「戦争犯罪」と断定した。
2017年のイラク政府によるハトラ奪還後、調査が開始された。神殿の主要なアーチ構造や壁面の一部は残存していたものの、多数の彫刻や碑文は修復不可能な状態に破壊されていた。国際チームによる3Dスキャンとデジタルドキュメント化作業が進められており、物理的な復元は困難でも記録としての保存は着実に前進している。
パルティア帝国の「忘れられた首都」——ハトラが語る中東史の空白
ハトラはパルティア帝国の「第二の中心」とも呼べる都市だったが、その歴史は長らく見過ごされてきた。
パルティア帝国(紀元前247年〜紀元後224年)は、現在のイランを中心にメソポタミアからインド西部に及ぶ広大な版図を持ち、ローマ帝国と400年以上にわたって拮抗したシルクロードの大国である。しかし後継国家のサーサーン朝が積極的に文献記録を残したのに対し、パルティアは自国の歴史をほとんど文字に残さなかった。そのため「パルティア帝国とはどのような文明だったのか」という問いへの答えの多くは、ハトラのような遺跡の考古学的調査に依存している。
20世紀初頭から始まったドイツ・イラク合同の発掘調査は、神殿群の構造、碑文、貨幣、彫刻を通じてパルティア文化の実像を少しずつ明らかにしてきた。発見されたアラム語の碑文はパルティア期の宗教観念や社会構造を伝え、各国の宗教が共存した「寛容な多文化都市」の姿を浮き彫りにした。
2015年の破壊はこの考古学的解明のプロセスを中断させた。失われた遺物の多くは、まだ十分に研究される前に消滅した。「砂漠の難攻不落の城」は最終的に、軍事力ではなく組織的な破壊意志によって倒れた——その事実は、文化遺産の保護が単なる学術問題ではなく現在進行形の国際的課題であることを、世界に突きつけている。
記録メモ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| UNESCO ID | 277 |
| 登録年 | 1985年 |
| 登録基準 | (ii)(iii) |
| 都市規模 | 直径約2キロの円形城壁、面積約324ヘクタール |
| ローマ撃退年 | 116年(トラヤヌス帝)、198年(セウェルス帝) |
| ISIS破壊実行日 | 2015年3月7日 |
| 危機遺産登録 | 2015年(世界遺産委員会) |