サーマッラー考古都市:56年だけ存在した帝国首都と、螺旋ミナレットの謎
836〜892年のわずか56年間だけ「首都」として機能し、その後ほぼ廃棄されたアッバース朝の第二首都。高さ55mの螺旋スロープが外壁を巻き上がる「マルウィーヤ・ミナレット」はイスラーム建築史上の傑作とされる。2006年にはシーア派聖廟が爆破され宗派紛争の象徴となった。都市の遺構は南北40kmに及び、在住期間のあまりの短さと規模の巨大さという逆説が歴史家を惑わせ続けている。
- 武力紛争・テロによる聖廟・建造物への直接破壊
- 不適切な修復・復元工事による真正性の損失
- 無秩序な都市開発と遺跡への不法侵入
- 軍事施設・基地建設による考古層の破壊
遺産の概要
サーマッラー考古都市はイラク中部、チグリス川西岸に広がる9世紀アッバース朝の遺跡群である。現代の都市サーマッラーを取り囲むように、廃墟となった宮殿・モスク・住居・浴場の遺構が南北40km以上にわたって連続している。2007年にUNESCOの世界遺産リストに登録されると同時に「危機遺産リスト」にも掲載された、世界でも珍しい「登録と同時に危機指定」という事例である。イスラーム建築の傑作「マルウィーヤ・ミナレット」とシーア派の重要聖地「アスカリー廟」を併せ持つ複合的な意義を有する遺産だ。
56年だけ存在した帝国首都——規模と短命さの逆説
836年、アッバース朝第8代カリフのムウタスィムは、バグダードから北方120kmのチグリス川沿いの土地に新都を建設することを命じた。首都移転の背景には、トルコ人傭兵部隊とバグダード市民の衝突が激化していたという政治的理由があったとされる。新都は「サーマッラー(見た者は喜ぶ)」と名付けられ、急速な建設が進められた。
注目すべきは、その建設規模の圧倒的な巨大さと、首都であった期間の短命さの対比だ。南北40km・東西8kmに及ぶ都市遺構の総面積は約57平方キロメートルに達し、当時の世界最大級の計画都市であったと推定される。宮殿「ダール・アル=ヒラーファ」だけで125ヘクタールを超え、モスク・競馬場・庭園・市場が整然と配置されていた。
ところが892年、第15代カリフのムウタミドはバグダードへの遷都を決定し、サーマッラーはほぼ一夜にして「首都」という機能を失った。住民の大半が去り、巨大な都市施設は急速に廃墟と化した。首都であった期間はわずか56年——都市建設に費やされたエネルギーと比較して、その歴史的「現役期間」のあまりの短さが歴史家を驚かせる。廃棄されたからこそ後世の開発から守られ、9世紀の都市構造がほぼ完全な形で地表面に残存しているという逆説もある。
この急速な建設と急速な放棄というパターンは、アッバース朝が抱えていた政治的不安定さを象徴する。カリフ権力はトルコ人軍人勢力に次第に侵食され、サーマッラー時代こそがその転換点であった。
マルウィーヤ・ミナレット——螺旋する55mの謎
サーマッラーを世界的に有名にした最大の建造物が「マルウィーヤ(アラビア語で「渦巻き」の意)・ミナレット」である。848〜852年頃に建設されたとされる大モスク「アル=マスジド・アル=カビール」の付属ミナレットで、底部直径33m、高さ55mの巨大な螺旋塔だ。
最大の特徴は、礼拝への呼びかけを行うムアッジンが塔の外側に設けられた幅3mほどの螺旋スロープを歩いて登る構造にある。スロープは時計回りに5周半巻き上がり、傾斜は緩やかでラクダでも登れたという伝承も残る。通常のイスラーム建築のミナレットが塔内部に設けた螺旋階段を用いるのに対し、外部螺旋スロープという設計は他に類例がほとんどない。
この独特の形態の起源については複数の説がある。古代メソポタミアのジッグラト(段状の神殿塔)の建築伝統を引き継いでいるという説、カリフの命により新奇性を求めて考案されたという説、建設に動員されたトルコ系職人の技術的慣習を反映するという説など、研究者の間でいまも議論が続く。
近代においては、2005年のイラク戦争中に米軍狙撃手が頂上部を使用したとされ、その際に頂上部の一部が損傷したと報告されている。古代の礼拝施設が現代の戦場として機能するという、保存の観点からは深刻な事態だ。同様の螺旋ミナレットはサーマッラー近郊のアブー・ドゥラフ・モスクにも存在し、同地域の建築的特徴であることがわかる。
アスカリー廟爆破事件——世界遺産内の宗派テロ
サーマッラーには考古遺跡と並んで、シーア派イスラームの重要聖地「アスカリー廟(金の廟)」が存在する。第10代イマーム・アリー・アル=ハーディーと第11代イマーム・ハサン・アル=アスカリーが埋葬された廟で、その黄金のドームはシーア派信仰の象徴として崇められてきた。
2006年2月22日、廟の黄金ドームが爆弾によって爆破された。さらに2007年6月には2本のミナレットも爆破された。これらの爆破はスンニ派武装組織による行為とされ、イラク国内のシーア派とスンニ派の間で報復の連鎖が始まり、イラク内戦に近い宗派間暴力が爆発的に拡大した。死者数千人規模の報復殺傷事件が各地で発生し、この廟爆破は「イラク宗派内戦の開幕」を告げる出来事として国際社会に記録されている。
廟は後にイランや他のシーア派国家・組織の支援を受けて修復されたが、修復の工法・材料・デザインをめぐってUNESCOとの間で真正性の問題が生じた。世界遺産の区域内に存在しながら、生きた宗教施設として現在も信徒が訪れる廟——保存と信仰実践の両立という困難な課題を体現する場所でもある。
記録メモ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| UNESCO ID | 1171 |
| 登録年 | 2007年(同年、危機遺産リストにも登録) |
| 首都期間 | 836〜892年(56年間) |
| 遺跡総面積 | 約57平方キロメートル(南北40km×東西8km) |
| マルウィーヤ・ミナレット | 高さ55m、螺旋スロープ5周半、底部直径33m |
| アスカリー廟爆破 | 2006年2月(ドーム)、2007年6月(ミナレット) |